ページの先頭です。
 

○名護市役所トップページに戻る
○文字を大きくするには
○サイトマップ

名護市の文化財と史跡

 


オランダ墓1
オランダ墓2

■ オランダ墓
 
屋我地島運天原の北西の岬にオランダ墓と呼ばれる墓があります。運天原の船揚場から北に約300m波打際を歩くとセメントの階段があり、そこをあがるとオランダ墓です。オランダ(ウランダ−)とは、近世において西洋人を指した表現で、葬られているのはオランダ人ではなくフランス人です。墓は、大岩の下に北西に向けて亀甲墓風に造られ、二基の墓碑(各縦75p、横51p、厚さ8p)が置かれています(現在置かれているのはレプリカ)。
 
184666日、フランスの旗艦クレオパト−ル号、サビ−ヌ号、ビクト−リアス号の3隻は運天港に入港し、交易等の交渉を求めました。75日まで碇泊しましたが交渉を拒絶され、3隻は長崎に向けて出発しました。その約1ヶ月の間にこの墓に眠る「方済各加略」と「亞各伯」は病気で亡くなり、ここに手厚く葬られたのです。「方済各加略」はフランソワシャルル(フランチェスコ・カール)、「亞各伯」はジャーク(ヤコブ)と読み、当時の乗組員名簿からフランソワ・シャルル・ギタール(一等助銃工)とジャーク・シャリュス(二等水夫・料理人)の二人だということが分かっています。
 墓碑は、ニ−ビ(砂岩)に立派な様式と文字で刻まれていて、恐らく王府が関わった仕事ではないかと思われます。この墓の管理は、間切時代には今帰仁間切の運天が行なっていましたが、今帰仁村の役場が仲宗根に移ったので、屋我地運天原の人々が管理することになりました。

碑文
 右「大彿朗西国戦船彿肋加特格肋阿巴特爾 老将貴大爾聖号方済各
   加略之墓 救世一千八百四十六年儒安月二十日病故」
 左「大彿朗西国戦船歌爾勿特未客多利阿斯 老将撒虜聖号亞各伯之
   墓救世一千八百四十六年儒安月十一日病故」

大沸朗西国=大フランス国、彿肋加特=フレガット(フリゲート)、格肋阿巴特爾=クレオパトール、歌爾勿特=コルベット、未客多利阿斯=ビクトーリアス、老将=意味は不明、貴大爾=ギタール(キタール?)、撒虜=シャリュス(サーリョ?)、聖号=洗礼名、儒安=
JUNE6月)

 最終更新日が表示されます。

 
ページの終端です。