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名護市の歴史〜2〜

  ■ 名護市の歴史〜2〜   ※名護市の歴史〜1〜はこちら

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土地等

名護市の歴史1

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名護市史の本

(7) 教育振興に向けて

県立第三中学校
県立第三中学校
 大正5年、多くの人材を輩出した国頭農学校が嘉手納に移転されたのは、
名護・山原の人々にとって大きな落胆であった。名護の町は火が消えたよう
だと、当時の新聞は伝える。町の振興のためにも、中学校の誘致は大きな
地域的課題であった。

 国頭郡民あげての誘致運動は、ようやく昭和3年に至り県立第三中学校の
開校となり、また大正9年に実科高等女学校として出発した国頭高等女学校
が昭和5年に県立第三高等女学校として再出発した。両校の繁栄はすなわち
名護町の活性化の支えでもあった。
 
(8) 沖縄戦と戦後復興

久志支所('70)

名護市役所久志支所(1970)

 山紫水明の地と謳われた名護の街は、沖縄戦火で灰燼に帰した。地上戦に巻き込まれた中南部に比べて悲惨な被害は少なかったものの、多くの人々に深い痛手を残した。昭和20年3月後半の米軍の大空襲により人々は山奥深く避難生活に入った。6月下旬、中南部からの避難民とともに山を下り、各地区の収容所に収容された。

 田井等、瀬嵩、大浦崎、久志の各地区に収容された人々は14万人を超えた。戦後の出発はこれら収容所から始まった。11月から元住地に戻った人々は、家を造り荒れた田畑を耕す日々が続いた。

 名護市街地の復興は、翌21年1月から区画整理事業として着手され現在の市街地の骨格が形づくられた。民間の復興も、同年末には住宅の6割、農地の5割が回復された。戦後の復興をはやめるため、昭和21年5月名護町から屋部村が、また羽地村から屋我地村が分村した。
 

(9) 1950〜60年代

大浦崎収容所

大浦崎収容所

 戦後の混乱期もようやく落着いた50年代後半は、一方では米軍基地建設の時代でもあった。昭和33年には、大浦崎収容所跡にキャンプシュワブ米軍基地の建設が始まり、引き続き久志岳・辺野古岳一帯の山地・丘陵地は演習場として接収された。また多野岳にはナイキ基地が建設された(昭和47年返還、現在のいこいの村おきなわ)。

 60年代の県民の政治課題は祖国復帰運動であった。その一方で、地域の産業は大きく変貌を遂げていった。昭和34年に価格補償されたサトウキビ・パイン栽培が大きく広がる反面、水田は減反も加わり減少の一途をたどった。

 その中で、オリオンビール、琉球セメント、北部製糖、経済連パイン工場など、近代的な大工場の立地が進み、また市街地や幹線道路沿いには各種商店や事業所が立ち並ぶようになった。昭和35年頃から合併が共通課題となり、約10年の歳月を経て、昭和45年8月1日、名護町・羽地村・久志村・屋部村・屋我地村の5町村が合併し、県下9番目の市として名護市が誕生した。
 
(10) 1970年代
730交通法変更('78)

730・交通法変更(1978)

 70年代は沖縄県全体が揺れ動いた激動の時代だった。特に昭和47年は、沖縄の日本本土復帰をめぐる諸問題で揺れ動き、さらに若夏国体の準備や沖縄海洋博会場の誘致合戦などで社会全体が騒然とした。

 そんな中で5月15日、本土復帰が正式に実現。新生沖縄県がスタートした。名護市では、北部中核都市としての基盤を整えるべく、名護湾の埋め立てや名護漁港の建設に着手。昭和48年には名護市総合計画・基本構想が完成。以後、名護市の街づくりの指針となる。

 昭和50年には、復帰記念事業の沖縄海洋博覧会が開催され、石川〜許田間に沖縄自動車道が開通した。昭和52年には21世紀の森に野球場も整備された。昭和53年には米軍の演習による事故が相次ぎ、市民の抗議活動が活発化した。またこの年には、交通方法の変更(730)が実施された。昭和54年には名護下水処理場が完成した。
 
(11) 1980年代

庁舎落成式典('81)

名護市庁舎落成式典(1981)

 70年代が激動の時代なら、80年代は基盤整備の時代だったといえる。80年代には、昭和55年の市制10周年記念事業と併せて多くの新しい施設が誕生した。

 昭和55年の市営市場改装に始まり、児童センター、新庁舎、名護博物館、大北小学校、名護市民会館、名護市消防署、名護市商工会館、名護市労働福祉センター、デイ・サービスセンターなどの建設や道路・公園等の整備が相次いだ。

 また、街の活性化や文化振興を目的とした市民健康マラソン大会や名護市健康増進大会、青少年文化祭典、名護市民劇、市民音楽祭など新しい催しも始まった。

 昭和60年には人口5万人を達成。昭和62年には、沖縄海邦国体が開催され、相撲、剣道、ラグビー、高校野球、自転車レースが名護を舞台に繰り広げられた。また、昭和61年には、名護市ーハワイ郡姉妹都市を提携。昭和63年には、岩手県松尾村と友好都市を締結した。

 米軍基地による被害は、昭和59年の機銃弾ダンプ直撃、ヘリコプターのドア落下と相次ぎ、昭和62年のタクシー被弾の際には抗議の市民大会が行われた。
 
12.1990年代
姉妹都市締結

ブラジル・ロンドリーナ市と姉妹都市締結

 1989年に昭和から平成と元号が変わり、90年代は21世紀にむけてのまちづくりの時代へと変わった。平成元年には、ふるさと創生事業の一環として「名護親方塾」を開設。市民レベルでのまちづくりも開始された。

 まちづくりの柱のひとつ教育・文化振興では、あけみお展や名護文化祭、名護市生涯学習振興大会などが開催されるとともに、名護市文化協会の設立、大宮中学校の開校、21世紀の森体育館、名護市立教育研究所の開設など施設の充実も図られた。そして、名桜大学の開学と北部看護学校の開校が大きな話題となった。

 平成4年には「北部広域市町村圏事務組合」(一部事務組合)が設立され、平成5年には拠点都市として北部地域が指定された。環境整備についても平成5年に市街地中心部を走る名護中央線が全面開通、新屋我地大橋も開通した。平成4年には、リュウキュウアユが源河川に放流され、話題を呼んだ。

 平成2年には北海道滝川市と友好親善都市を締結。平成9年には、大阪府の枚方市と友好都市を締結。そして平成10年には南米ブラジル国のロンドリーナ市と姉妹都市を締結した。更に、西暦2000年に行われる主要国首脳会議(サミット)の沖縄・名護市での 開催が決定し、現在に至っている。

更新日:2014年2月3日

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