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名護市の歴史〜1〜

■名護市の歴史〜1〜 ※名護市の歴史〜2〜はこちら

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(1) 歴史のはじまり

大堂原貝塚最下層出土遺物

 名護市にいつ頃から人々が住んだのだろうか。沖縄では、那覇市で発掘された遺跡が最も古く、今から約32000年前と言われる。名護市では、屋我地済井出の大堂原(ウフドーバル)の浜で約6500年前の土器が見つかっている。
1500〜2000年前の時代になると、名護貝塚をはじめ各地の海岸の浜堤を中心に人々の居住がふえる。当時、農耕はまだ行われず、沿岸の魚介類や野山の草や実を採集して生活を営んでいた。

12世紀は、沖縄の歴史の大きな転換期である。麦や米・雑穀の栽培が始まり、鉄器が導入され、土器も急変する。人々は海岸から丘陵や台地に住む場所を移す。この時代を考古学ではグスク時代と呼ぶが、中南部に比べて名護・山原のこの時代の遺跡はずっと数が少ない。グスク時代を通して各地に按司と呼ばれる有力者が現れ、支配者が生まれてくる。

これらの諸按司の上に、北部地域では今帰仁城を構える北山が支配者として君臨する。14世紀の頃である。当時すでに、北山をはじめ各地の按司たちは中国などと交易を行っており、その遺物として各地から中国製の陶磁器が数多く出土する。

(2) 北山から琉球王国へ
北山は3代90年余り続いたとされる。1416年、中山軍が北山を攻略する際、名護・羽地・国頭の諸按司は中山軍につき、北山を滅ぼした後、尚巴志は1422年に北山監守を置き、山原の警固体制をしいた。この北山監守は、さらに15世紀末の第二尚氏時代を経て1665年まで続いた。
(3) 近世の間切と村・百姓

名護親方/程順則像

名護親方/程順則像

 第二尚氏の支配下から、1609年の島津侵入に伴い、古琉球の政治社会から近世へと変わる。実体としての「シマ(村)」に変化はなかったが、行政的な再編が進められた。17世紀中頃、納税の単位としての「村」は、名護間切17、羽地間切14、計31か村であった。

 その後、18世紀中頃には名護間切11、羽地間切18、久志間切13、計42か村となり、近世末に至る。名護・羽地・久志の各間切は按司地頭・親方地頭(両惣地頭)によって知行された。

 その中で、近世沖縄を代表する文人・学者・教育者であり、聖人親方として有名な名護親方程順則は、1728年に名護間切総地頭職を拝領した。なお、番所と称された近世の間切役所は、名護間切では当初東江の銭川森に置かれ、17世紀末に現在の名護博物館の場所に移された。

三府龍脉碑記
三府龍脉碑記

 近世、農業が産業のすべてであった百姓は主食として芋を作る一方、貢租として中頭・島尻ではサトウキビ作が、山原では今帰仁・伊江島を除き米作が義務づけられ、特産物として鑿金(ウコン)が指定された。1735年、蔡温の陣頭指揮で国家事業として実施された羽地大川の改修工事は、米作の基盤を確保するとともに、近世の土木技術の水準を示すものであった。鑿金は山原の特産物で、18世紀中頃この地域で13,000斤ほど産出され、本土では黄染料として重宝された。タクアンが黄色なのは、実は山原の鑿金のお陰なのである。

 ヒンプンガジマルの下に建つ(三府龍脉碑記、1750年)は、当時王府内部で論議された名護遷都論と、屋部と古我知を結ぶ運河開削論を、蔡温が風水思想の立場から批判し、制止したことを伝えている。
(4) 近代と名護マチの発達

田植えの様子

田植えの様子

 明治5年の琉球藩の設定、同12年の廃藩置県と、本地域も激変の中で明治国家に組み込まれ、旧慣制度を残しながらも近代を足早に歩んでいく。ことに名護マチの発達は急速であった。

明治15年以後、郵便局・病院など地方の中枢機関は名護に集中立地する。明治17年、大兼久は「国頭地方最も繁盛の地」といわれた(沖縄県地誌略)。那覇との海上交通が整備され、物資の集出荷や人々の移動の中継地と名護港の役割が増し、名護大通りを中心に商店の立地も相次いだ。明治後期から大正初めにかけて那覇〜名護間の県道が、続いて山原各地間の郡道が整備され、陸上交通の中継点ともなっていく。

こうして、山原の行政・運輸交通・教育・商業機能が名護市街地に集中する中で、マチとしての姿と地位・役割が備わり、方向づけられたのである。この基本性格は今日も変わらない。大正12年、久志村の北側5か字が東村として分村し、翌13年2月名護村に町制を施行し名護町となる。

(5) 産業の振興の努力
戦前の産業は、名護市街地での商業・運輸業のほかは、農業と山仕事が産業の中心であった。明治21年にサトウキビ作が普及するが伝統的に水田の比重が依然として高く、サトウキビ作が本格化するのは、戦後1960年代になってからである。また、広大な山林を抱えるこの地域の人々の生計を今一つ支えたのは、山仕事である。

明治10年代、移住してきた士族出身者を中心に、山の開墾と藍づくりが始まる。明治後期には羽地大川上流域をはじめ各地の山々で、多くの人々が藍栽培や薪、木材の生産、また炭焼に現金収入の道を求めた。村々の河口や入江はこれらの物産を運ぶ山原船でにぎわった。山仕事は、戦後1950年まで名護・山原の重要な生業であった。
(6) 移民と出稼ぎ
移民家族の写真
移民する家族の記念写真
明治32年のハワイからはじまった南北アメリカへの移民は、太平洋の島々やフィリピンなどへ広がっていった。大正中期から紡績女工を中心に、本土への出稼ぎが年々増えていった。新しい生活の場と職を求めて多くの人々が県外・海外に出かけたが、また彼らからの送金が人々の生活を強く支えたのである。

羽地は、県内で最も多く移民・出稼ぎ者を出したところで、とくにブラジル、ハワイに多い。名護からはハワイ、ペルーや、南洋・フィリピンにも多くの移民・出稼ぎ者が出ている。昭和10年、名護市出身者で海外に居住する人々は人口比にして19%、5人に1人が海外にいたことになる。


本土への出稼ぎには、羽地・名護からが多く、大阪・兵庫・和歌山・三重・神奈川・東京が大半を占めている。女子は主に紡績女工として、また男子は鉄工所などの工員であった。

 

更新日:2014年2月3日

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